これまでこの観点に立って、お亀石古墳と新堂廃寺との関係に言及した先学の所説は多いが、どちらかというと石棺の棺側の平瓦を、直ちに寺院創建時の屋瓦と結びつけて、両者の成立を同じ時期としてきた傾向が強い。筆者は棺側の平瓦を飛鳥時代とみることに異論はないが、寺院創建時に屋根の葺料として供給された瓦とは別に、やや遅れた時期にとくに古墳埋納用として焼成されたものと考える。棺側の平瓦が厚手で、寺院址出土の創建時の屋瓦とやや整形技法が異なること、ことごとく酸化焔低火度焼成の軟質品で、長期の雨水、雪霜に耐える屋根葺料として適したものとはいえないからである。すなわち筆者としては新堂廃寺の創建をおおむね六二〇~三〇年の時期に、お亀石古墳の築造をそれよりもやや遅れた六四〇年を中心とする時期に求めるべきだとする見解をとるわけである。