終末期の中頃の段階に至って登場するこのお亀石古墳は、在来の家形石棺の形態を保つ点で、まさに終末期の中の中軸的位置を占めるといえる。後期の横穴式石室の主流がまず花崗岩切石の新石室を生んだとすると、この流行はお亀石古墳のような石棺式石室に対して、やはりやや先行して終末期の初頭を飾るものであろう。具体的にいえば、聖徳太子墓は太子没年の六二二年以降、上宮王家が蘇我氏一派により、山背大兄皇子をはじめとして、一族ことごとく斑鳩寺に滅びたとする『日本書紀』皇極二年(六四三年)の時期に至るまでの間に築造されたとみたい。すなわちその最も妥当な年代は六三〇年以前の頃であろう。
話題が大分難しい内容となったが、お亀石古墳は終末期古墳の年代を決定する上で、聖徳太子墓とほぼ同様の重要性をもつことを理解して頂ければよい。その重要性は古墳の内部構造だけでなく、当時の大陸交渉との清新な息吹きともいうべき寺院造営ともかかわりを有していた点にある。上記の年代推定によると、聖徳太子墓が太子町の磯長谷の一角で築造されつつあった頃に、程近い石川の西岸の丘麓では新堂廃寺の造建が進められていた。両者に関する史料が全くないので、相互にどのようなかかわりをもって進行していたのか分からないが、七世紀前半の石川谷は歴史の展開の上で、重要な役割を演じつつあったことは確かである。そして新堂廃寺の創立を支えたのは、寺院の東方にあたる台地上に営まれていた集落の人びとであった。