新堂廃寺とお亀石古墳との間に緊密な関係が認められる以上、石川谷の集落群のいくつかを勢力の基盤とした在地豪族の存在をクローズ・アップさせることは容易である。たとえば石室の石材の運搬はその具体的表現である。羽曳野丘陵はすでに指摘したように、後期の横穴式石室の構築例がきわめて乏しい地域で、その理由は金剛・葛城山地の花崗岩石材の産出地から離れていて、間に石川を介する運搬の不便さにあった。その地域的に不利な条件をおしてこの地にお亀石古墳が構築されたところに、新堂廃寺の造建を軸とした在地豪族の権力あるいは財力の強さを評価しなければならない。ただ古墳を通じて社会史的な考察を試みる上で、被葬者の像を描き出せる副葬品が、遺物として何一つ残っていないのは遺憾である。