漆器の起源と伝流

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もともと漆を器物の表面に塗って作る漆器は、縄文時代の後期に確実に成立していて、晩期になると東北地方各地の遺跡から、漆器に赤色顔料で加彩した高度な工芸技術を示す遺物も出土している。中国の場合には、紀元前千数百年も前の殷・周時代に、すでに木胎漆器が完成した形で現れていて、秦漢時代になると細密な文様で飾った華麗な各種の漆器が広く流行した。両地域の文化がそれぞれ漆器を有していたことについて、たとえば中国から朝鮮半島を経由して技法が伝来したであろうと推測することは困難ではない。しかしウルシの木は中国大陸や東南アジアに限らず、日本列島でも自生していたものであるから、樹幹からにじみ出る液汁を利用して土器の内面に塗り、水密性を持たせる工夫などから、日本でも固有の発達をとげたであろうと考えられている(松田権六『うるしの話』岩波新書一九六四年)。

 古墳時代に下ると、多種多様な器物に塗漆することが前期から認められ、漆のもつ装飾性と耐久力がすでに定着したことを思わせる。漆塗の弓、箆(の)(矢竹)に漆を施した矢あるいは短甲の鉄葉に黒漆を塗ることなどは、革製品への塗漆とともに中期になって実用的な目的から生じたことであろう。ところがこの時期を通じて、割竹形あるいは組合式箱形の木棺が流行しているにもかかわらず、棺体の外面に漆を塗った例はまだ報告されていない。かりにこのような技法が用いられていたとすると、木質部分は朽失してしまっても、表面の漆の被膜は永く遺存するはずである。少なくとも筆者が直接体験した畿内地域の数十基の前期・中期の古墳の中には、こうした事実は認められなかった。ところが終末期の段階になると、上述した河南町平石のアカハゲ・塚廻両古墳のように、丘陵斜面に併列して営まれた古墳から、ほぼ同形、同質の漆塗籠棺が検出された例があり、棺体に漆を用いるのは、新しい技法として登場したことを示している。