棺体に布を幾重にも漆で塗り固めた例は、中国の場合すでに漢代にある。日本では聖徳太子磯長墓が同種の夾紵棺であるのをはじめ、高槻市阿武山古墳や奈良県明日香村の牽牛子塚古墳に例があり、麻布を三五枚も重ねて板状の厚さに仕上げたことが知られている(264)。おそらく漆を用いた棺としては、この夾紵棺が最初に、しかも本格的な技法としてあらわれ、漆塗籠棺はこれをやや略式化して工夫されたものであろう。木棺あるいは石棺に塗漆する手法は、夾紵棺が採用されたのちに初めて出現し、最も遅くまで流行したと考えて間違いあるまい。平石のアカハゲ・塚廻両古墳は、この観点と、出土した各種の遺物からみて、七世紀の第3四半紀、すなわち六五〇年から六七五年の間に作られた可能性が高いと、筆者らは考えている。
本市域から、まだ棺に漆を用いた古墳の発見例はない。しかし上述のように周辺地域の古墳の年代が位置づけられてくると、本市域のお亀石古墳が、太子町の聖徳太子墓の成立した後に営まれたこと、さらに河南町のアカハゲ・廻塚古墳はそれよりもまた遅れて築造されたという前後関係の編年が可能となる。この他に石川谷全体を通じてみると、羽曳野市東方の丘陵地帯の古墳をはじめとして、終末期の中に編年される古墳は少なくないので、内部構造の型式変遷と棺素材、形態の移行の問題をあわせて今後検討すべきであろう。本市域内に限ってみた場合、お亀石古墳以後に成立した古墳としてどのようなものがあるであろうか。