この古墳の発見は一九五〇年代の初頭で、戦後間もなく付近に外地から帰国した人たちの農場が開設され、新しく開墾した結果だという。当時の聞書によると、丘陵屋根の南縁を畑とするために掘り崩していったところ、まず石棺の蓋石端に当たり、南側の土砂を除去して扉石を前方に倒し、初めて内部の状況をうかがったとある。この直後に付近に赴いた、当時、河南高校生であった万谷計三氏が、発見の第一報をもたらした。その際、扉石に接したすぐ南側に、長頸壺が破砕して一部露出していたのを採集した。筆者の実査した時には、棺内はかなり撹乱されていたものの、内部に流入した淡黄色の山土が、床石に接するごく薄い層だけ赤色顔料のために鮮やかな淡紅色を呈していたのが印象に残った。蓋石の形態や護石の存在は当時まだ判明せず、ただ南側の開口部だけを観察しえたにすぎない(266)。
その後、一九六〇年になって大阪府教育委員会により、一度全体の調査が行なわれた。越えて六二年に、付近一帯が大規模な開発のため、丘陵頂部が全面的に削平されることになり、宮前山古墳を原状のまま保存することが困難となった。たまたま前年に大阪大学で真名井古墳を発掘調査したことが縁となって、開発会社からこの石室を寄贈されたので、石室を解体して、豊中市待兼山の同大学文学部に搬送、学舎の中庭に移築した(267)。