石室の組合わせ部分を解体したところ、四枚の側石の接合に特別な工夫を試みていることが判明した。すなわち、底石の四辺に段を設けて側石をそれぞれ載置するようにしているものの、南側の扉石には下辺にだけ相欠きの段を刳り、石室の構築後に嵌入、閉塞する仕組みになっている。ところが他の北と東西の三側石は、最初の構築の際に組合わせて固定している。つまり長辺側石の北端にそれぞれ短辺側石の厚さだけの浅い縦溝状の仕口を作り、北側の短辺側石の両端を内側にしっかりと嵌入させている点である。この事実は組合式石棺の構造と異なり、宮前山古墳の内部構造が石室としての機能を有する証左として重要であろう(268)。
一般に組合式石棺の側石の組合せ方が、五世紀の長持形石棺の伝統を受けた古い例の場合、短辺の側石を長辺の側石の内方にいれることが指摘されている。これに対し六世紀以降の組合式石棺では新しい手法として、短辺の側石を長辺の側石の外方にあてる方法に変わることから、六世紀中葉がその変換期と考えられている(小林行雄『続古代の技術』塙選書一九六四年)。いわば宮前山古墳は時期的には後者の段階にあたるわけであるが、接合の方法が異なる点をもとにしても、石棺の系統とは異なり、石室の範疇に属することがいえよう。