南坪池古墳の塼片

336 ~ 337

市域の南寄りにあたる錦織の西方にも、花崗岩の切石を用いた終末期の古墳と推定されるものが一基ある。錦織志学台の大谷女子大学から外環状線道路を介した西側の羽曳野丘陵上で、南坪池古墳と称している。直径一七メートル、高さ一・七メートルの円墳で、石室の石材の一部が露出しているにすぎず、石室としての規模・構造はまだよく分からない(269)。大阪府教育委員会が一部分を試掘調査して、須恵器片、凝灰岩片の他に、同心円叩文を有する塼の破片などが出土した。塼片は古墳の東方に分布する細井廃寺・錦織廃寺から表面採集されたものと、焼成・施文・技法などの点で共通していて、著しく興味をそそられる。とくに細井廃寺の場合には、古墳との距離が約五〇〇メートルと接近していて、寺址からは複弁蓮華文軒丸瓦と重孤文軒平瓦を伴出し、白鳳時代に属する寺院であることが確実にいえる。したがって同種の塼が南坪池古墳にもともなうとすると、古墳の年代を七世紀の後半に位置づける手がかりとなるだけでなく、古墳と寺院との関係を結びつけるものとして、さきの飛鳥時代のお亀石古墳と新堂廃寺における場合と同様のことを、ここでもいいうることになろう。

269 北方から見た南坪池古墳の外形、墳頂のくぼんだ一角に花崗岩切石の石室石材の一部が露出している