「大坂山ノ石」の発見

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二上山は大阪府と奈良県の境に位置し、縄文・弥生時代のサヌカイト製石器原石の重要な供給地としてすでに紹介した。ところが古墳時代の後期以降になると、凝灰岩の石材供給地として、きわめて枢要な地位を占めることになった。

 しかし古代に石材として広く用いられた凝灰岩の産地が、当初から二上山と結び付けて理解されていたわけではない。一九〇〇年頃、奈良県技師の職にあった関野貞氏は、薬師寺東塔の修理などを契機に、県下の古代寺院の基壇に凝灰岩様石材が使われていることに着目して、この産地を探査した。その結果、まず二上山北麓の穴虫で類似の石材を発見したものの、軟質にすぎて必ずしも満足できず、その後も度々二上山周辺を踏査した。氏の回顧によると一九一七年八月、同山南腹の岩屋峠と鹿谷寺址に至って、初めて法隆寺の堂塔基壇に使用されているのと同質の凝灰岩の露頭を発見したという(関野貞「法隆寺堂塔の基壇に使用せられたる凝灰岩様石材に就て」『考古学雑誌』一五―七、一九二五年)。

 考察の終わりの部分で「崇神紀」の箸墓の条に見える「大坂山ノ石」とは、この穴虫周辺から鹿谷寺址にかけての凝灰様岩を指したと断定した。さらに、はやく「墳墓の石槨・石棺」に用いられたこと、また引き続いて「飛鳥寧楽(なら)平安時代の宮殿仏寺等に盛んに使用された」としたのである。石棺の例としては奈良県高取町水泥(みどろ)古墳、明日香村牽牛子塚古墳のほか、大阪府下では羽曳野市小口山古墳、柏原市道明寺山千塚内の古墳などをあげているが、もちろん現在ではもっと広く、畿内各地にわたって二上山産凝灰岩の使用例を指摘できる。