二上山に位置する鹿谷寺址や岩屋峠は市域からそう遠くない。喜志から太子町春日に至るバスを、六枚橋の終点で降りると、東方に向かう緩やかな登り坂の旧道をたどればよい。この道は古代の官道として著名な竹内街道であって、大道と称する地名も残り、沿道の屋並のたたずまいも街道筋にふさわしい古い面影をよくとどめている。やがて左手の丘の上にこんもりと茂る森は孝徳天皇陵で、ここから約一・五キロで鹿谷寺址の麓に達する。街道から左に枝分れした細い坂道は雨が降ると谷川に変ずるため、寺址までの比高差はわずか六〇メートルにすぎないものの、岩塊の重畳した悪路である。
道をあえぎあえぎ登れば、急に平地が開けて正面に板石を積み重ねたような細くて背の高い石塔が屹立する。ここが鹿谷寺址である。山の尾根筋を広く切り開いて、南北約三〇メートル、東西約二〇メートルの不整形な平地の中央に、凝灰岩の露頭を彫り残して刻んだ高さ約五メートルの十三重石塔がある(272)。これに対して東側の岩壁は浅い石窟をなし、壁面に三体の如来像を線刻している。鹿谷寺址からさらに尾根伝いに岩場のような小道をたどると、ようやく山腹をめぐる平坦な道に出る。岩屋峠は二上山の雌岳のちょうど南側の稜線部にあたり、大阪府と奈良県の境でもある。道路の右手に西方に開いた岩壁があり、中央にかなり大きな石窟を穿っているところから岩屋の名が生じた。中に石塔があり、仏像も刻していて、史跡としても甚だ重要なところであるが、ここでは直接関係がないから詳しくは触れない。鹿谷寺址や岩屋は仏教関係の遺跡で、周辺に小規模な石切場が散在している。
石棺材を供給する石切場を確定するためには、今後さらに調査しなければならないが、岩屋の周辺に露頭をもつ凝灰岩は、肉眼で見ても明らかに多量の細礫を含んでいて、お亀石古墳の石棺蓋の材質と非常によく似ている。包含されている細礫の鉱物学的種類を相互に比較すれば類似の程度も明らかになると考えられるので、これは興味ある課題となろう。