播磨風土記と石の宝殿

346 ~ 347

和銅六年(七一三年)をあまり下らない時期の編述と考定されている『播磨国風土記』には、この竜山を「伊保山」と呼ぶとあり「作石(つくりいし)」の伝説を記載している。作石とは、いま生石(おおしこ)神社の神体となっている著名な「石の宝殿」のことで、竜山石の巨大な石材を岩層中から切り出し、高さ七・三メートル、長さ六・五メートル、幅五・七メートルの横に倒した家屋形に加工したものである。前面に神社の社殿が営まれ、宝殿自体は方形の池の上に浮いた姿で周囲を注連縄(しめなわ)で飾っている(278)。『播磨風土記』には「形、屋(や)の如し。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもかくの如し」とあり「聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり」と記している。すなわち聖徳太子の時代に物部守屋のために石棺として加工したものの、完成するに至らなかったという伝承を伝えているのである。先年この石の宝殿について詳細な実測調査を試みた天理大学の西谷真治氏も、諸説を検討した上で一種の墳墓の用に供したものとする解釈をとっている(同氏「石の宝殿」『天理大学学報』五九、一九六八年)。生石神社の周辺には小型の刳抜石棺も残っていて、西谷氏によると、現在高砂市役所構内の一隅に保存されている古式の家形石棺の蓋も、もとはこの竜山の頂上にあった遺物である。

278 石ノ宝殿全景、生石神社の神体で、竜山石の露頭から切り出し加工したもの