この推移の中で南大和型と播磨型との関係については、前者の南大和型が七世紀前葉では最大の分布圏をもつのに反し、七世紀中葉以降になると磯長谷と羽曳野丘陵の一部に縮少、収束する傾向をみせる。そして奈良盆地南部に南大和型の確実な例はなく、播磨型のみが分布するという。これはまさに政治的変動による影響を暗示するもので、南大和型は蘇我氏関連氏族の石棺型式として、蘇我稲目以降に成立発展したために、六世紀前半から七世紀前半にかけての流行がある。すなわち南大和型は蘇我氏の「私的棺」といえるのではないかと氏は推論する。一方の播磨型は前者に代わって発展した点で大和政権の「公的棺」的性格をもつものとみられるというのである。その根拠として整斉な切石造りの岩屋山古墳式およびその亜式の横穴式石室内の家形石棺を挙げる。橿原市の小谷古墳、桜井市の艸墓古墳、生駒の西宮古墳は、いずれも竜山石を用いた播磨型刳抜式石棺に属しているからである(280・281)。