一九七六年に発表された和田氏の上記の論文に対して、それに先立って広く西日本各地の石棺石材を再検討し、すでに一連の業績を発表しつつあった倉敷考古館の間壁忠彦氏らの成果も紹介しておかねばならない。氏らは石材のX線回折像による同定作業を通じて各地の石棺を検討し、九州の阿蘇熔結凝灰岩・播磨の竜山石、讃岐の鷲の山石、二上山の白石、ピンク石、および青石が、それぞれ固有の回折像を示して同定できることを明らかにした。これらの業績の中で一九七六年に発表された畿内の家形石棺関係の論文を取り上げておくことにしよう(間壁忠彦・間壁葭子・山本雅靖「石材からみた畿内と近江の家形石棺」『倉敷考古館研究集報』一二)。この中では和田論文と共通する問題を論じ、反論も加えられている。
両論文が扱っている家形石棺の資料がほとんど共通しているのは当然であるが、編年上の位置づけと資料を解釈する際の力点のおき方に大きな相違がある。間壁氏らの論文(以下間壁論文という)は石棺型式の変化と石材使用の推移を豪族勢力の異動に結びつけて理解しようとし、『記・紀』とくに『日本書紀』記載の支配体制の変動と具体的、かつ積極的に対応させる姿勢が目立つ。これは氏らが本文中に「本来、石棺は伝統的権威をもつ身分の証明」と表現しているところからもうかがえる。