間壁論文では二上山ピンク石石棺の使用が五世紀後半に始まるとみて、この出現地域が奈良盆地東部だけに限らず、河内・和泉の大王墓の陪塚にも認められることを強調して、長持形石棺との異質性に注目する。すなわちその理由を政治的上層部の変動に求め、河内王朝の葛城氏の没落が長持形石棺の衰退を招いたとし、従来の臣姓氏族に代わって新しく伴造系氏族の台頭による質的変化が原因と考える。また奈良盆地東部の石棺分布は大伴・物部両氏の勢力分布圏と関係があるとする。この点では、和田氏が畿内家形石棺の発生を、九州の影響による第一の画期と解し、奈良盆地東部の地域で舟形石棺と家形石棺の交代を考えているのと異なっている(282)。
間壁氏らは吉備にあたる岡山県下の備前築山古墳に、五世紀末の古式のピンク石石棺が運ばれている事実に注目し、畿内のピンク石石棺勢力との結合を示すものかとみて、『書紀』雄略紀の記事と関連させて、吉備と紀の水軍の交渉を推測している。六世紀初頭になると、もともと小範囲の分布にとどまっていたピンク石石棺が白石刳抜石棺に移行し、同時に大和での分布地域も変更するに至る。奈良盆地東部の大型古墳には、白石組合式の石棺が多く認められるようになるが、この変化の背景として継体天皇没年前後の大和勢力と豪族との動揺が反映しているとみる。いいかえると白石組合式石棺の流行の中心を六世紀の第2四半紀におき、物部氏集団との関係を意識した解釈であるが、『記・紀』の記載内容を前提とし、史料の伝承に結びつけて考古学の論証が試みられていることを指摘できよう。考古学の考察が既成の古代史の枠を踏み越えない慎重さはあるものの、史料の傍証にとどまっているもどかしさも感じられて、折角の新しい視座からの観察が主体性を発揮できないのではないかという懸念も生じる。