氏らの見解によると、播磨の竜山は五世紀代に河内王朝の長持形石棺製作地であった。その後、竜山石に代わって二上山産の凝灰岩が登場するのは、新たに台頭した物部氏の勢力下にこれら二上山の石切場が置かれたためである(283)。しかし物部氏を倒して蘇我氏が権力を握ると、播磨の竜山石切場はその支配下に属し、竜山石の再開発が行なわれるに至る。この時期は六世紀中葉から後半にかけてが中心で、七世紀中葉以降は竜山石の使用がむしろきわめて少なくなる。この点、先に和田氏が竜山石を「播磨型」として大和政権の「公的棺」と解し、蘇我氏による「南大和型」の「私的棺」に次いで七世紀中葉から流行するとした解釈と相違している。
ただ間壁氏らは「六世紀末から七世紀前半にかけての、とくに大和内の優秀な竜山石石棺を、蘇我氏に結びつける具体的証拠は何もないのである。また蘇我氏の中で石棺を使用し得るものが、すべて竜山から石棺を運んだというのではない(五一頁)」と付言して、蘇我氏と竜山石との関係について断定をさけている。この点で「河内南部における終末期古墳の石棺と、大和南部のそれとのあり方は、竜山石石棺のあり方の違いと、横口式石棺(槨)の採用の仕方の違いなどから、同一には論じられない」とした発言とともに、まだ結論を出すに至っていないと見るべきである。むしろ、山城・近江・河内の一定地域に竜山石石棺の分布が認められることについて、秦氏との関係を今後検討したいと結んでいる点で、石棺の材石と産地を特定の豪族に対応させる問題は、興味あるテーマとして残されているといえよう。