このように石棺の形式と石材の産地について、熱心な研究が現在進行中である。富田林市域内にあるお亀石古墳と宮前山古墳がごく接近した距離にあり、年代的にも五〇年前後しか隔たっていないとみられるにもかかわらず、前者の石棺には二上山産白石を用い、後者にはたぶん播磨南部から運ばれてきた高室石が使われていることはすでに指摘した。上述した問題はこの市域内の古墳にも存在することになる。一方のお亀石古墳が整った刳抜式の家形石棺に横口を設けた構造をもつのに対して、宮前山古墳はもう石室としての外見にこだわらないで、終末期的な組合式の石棺式石室に推移した構造であるところにも両者の系統の相違が感じられる。終末期古墳の中でもお亀石古墳の形式は古くてユニークで、間壁氏らはお亀石を評して「すべての道がお亀に通じる」という愉快な表現をしているほどである(間壁忠彦・間壁葭子『日本史の謎・石宝殿』六興出版一九七八年)。しかしお亀石古墳の内部構造は切石の石室といい、縄掛突起を備えた家形石棺の形態といい、従来の横穴式石室からの変化として説明することができるであろう。これに反して宮前山古墳は播磨産の材石だけを取り上げてみても、南河内では出土地不明の狭山池畔の数例と、太子町の磯長小学校裏の棺蓋の一例を類例として持つ程度の、甚だ珍しい存在といわねばならない。
これら両古墳が属する七世紀は、大和だけでなく、河内の石川谷を本拠とする豪族にとっても激動の段階であったに違いない。石棺石材が異なる理由を、石切場の占有権をめぐる豪族勢力の角逐に求めるのが妥当か、両古墳の被葬者である豪族自体にも交代があったとすべきなのか、軽々には結論の出せない問題である。この解決は広く畿内終末期古墳の編年の中で、石棺の形式と石材分布を位置づけてのちに、初めて可能であろう。