古墳の編年と被葬者

357 ~ 358

お亀石古墳と宮前山古墳の石棺が、ともに終末期として余り時間差を持たないにもかかわらず、形態の上で全く異なっているのは、石材の相違が示すようにそれぞれの製作地を異にしていたためである。これに対して古墳の内部構造をなす石室は、その場所で構築されたものとして、同一地域で同一時期に属する石室の型式が共通する理由も説明できる。石室の型式が相違すれば年代差を示すことになるわけである。石川谷に関していえば、終末期の石室は太子町の聖徳太子磯長墓が最も古く、お亀石古墳がこれにつぎ、河南町の塚廻、アカハゲ両古墳が最も新しいといえよう。羽曳野市の飛鳥観音塚はおそらくお亀石古墳と同じ頃に成立したものである。

 さて最後に触れておかなければならぬ問題として、お亀石古墳の被葬者の名前がある。卒直にいって考古学の立場から、被葬者が誰であるかを明らかにすることは全くできない。被葬者を確定できるのは墳墓の中に墓誌が共存していて、その銘文中に記載のある場合に限られる。これに次ぐものとして、『記・紀』などの古い史料や、土地に古くから伝えられた有力な伝称などがあるが、この場合には推測の域を出ない。ただ有力な豪族が地域的に存在していて、それとほぼ同時期の築造とみられる古墳については、氏族との関係を指摘できる例がある。お亀石古墳に関しては新堂廃寺の創建に深く結びついた豪族であろうという推測が可能なので、将来、寺院建立の歴史的背景と飛鳥時代の寺院址群に対する系譜が明確になって行くと、傍証的に豪族名が浮かび上がってくることが期待できる。河内で最古に成立した寺院の一つと判断してもよい現状からすると、やはり蘇我氏一族にきわめて近い豪族を想定しなければならないであろう。

 蘇我氏は六世紀代から七世紀中葉にかけて、大和盆地の南部を勢力基盤として活躍した屈指の大氏族であったことはよく知られている。その祖を武内宿禰とし、葛城地方を本貫としていたとするのは後世の造作であるとしても、満智以来大和勢力の中で財政と外交、とくに渡来勢力の支持のもとに急速に地位を高めた豪族であった。ことに一族の中心人物ともいうべき蘇我馬子は飛鳥に氏族本宗の氏寺として法興寺、すなわち飛鳥寺を建てた。その勢力も六四五年を転機として失墜するが、河内南部には蘇我氏一族の中で有力な傍系氏族が存在した。『三代実録』元慶元年一二月二七日条によると、石川朝臣木村が改姓を願った上言の中に、武内宿禰を始祖とした宗我石川の名がある。彼の名は河内国石川の別業(別荘)に生まれたことにより、また宗我大家に居住したところから宗我宿禰の姓を賜わったことによるという。『姓氏録』左京皇別に蘇我稲目はこの蘇我石川宿禰の四世の孫と伝えるなど、河内国石川と蘇我氏とは古くから浅からぬ因縁を有していたのである。こうした氏族の系譜がどの程度信憑性をもつかは別の角度から慎重に検討する必要があるが、蘇我氏の勢力が大和とは別にこの河内南部にも伸張していたとすると、終末期古墳の成立と初期仏教伽藍建立の背景の事情について、理解できるところは多い。換言すると富田林市域を中心とした河内南部の古代史像もまた、六世紀から七世紀にかけての古代国家の展開の上で深いかかわり合いをもったということである。