第二節 市内の古墳・遺跡各節

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 市域内の古墳分布は広く全域にわたって前・中・後および終末期の各期に属するものが見られる。前節では石川流域の中でそれぞれの古墳が占める特色、あるいは全国的な古墳文化の展望において、どのような位置づけが可能かという点を概観した。本節ではつぎの順序にしたがって個々の古墳と同時代の生産遺跡に対して解説を加えることにしよう。

  1 廿山古墳

  2 真名井古墳

  3 美具久留御魂神社裏山古墳群

  4 鍋塚古墳

  5 廿山方墳

  6 板持丸山古墳

  7 板持2・3号墳

  8 彼方丸山古墳

  9 新家古墳・川西古墳

  10 西野々古墳群

  11 田中古墳群

  12 平古墳群

  13 嶽山古墳群

  14 彼方古墳

  15 お亀石古墳

  16 宮前山古墳群

  17 錦聖町付近の古墳

  18 中佐備須恵窯址

  19 五軒家須恵窯址

 これらは内容の明らかな市内の主要古墳あるいは遺跡といえるものであるが、このほかに個々の解説を省略した若干の古墳がある。その理由について記しておくことにする。

 まず南大伴の南に接して古く篝山と称した小丘陵がある。その上に西大寺山古墳として一九五五年発行の『富田林市誌』に記載した古墳が、南北に二基存在していた。今回市史の執筆にあたって再調査を試みたが、開発のために当時の景観は失われていて、新しい知見を得ることはできなかった。墳丘は早く削られていたものの、南墳の裾部で埴輪円筒列の残存とみられる埴輪の下半部が検出され、残存高二三センチ、上部径二五センチ、底部の径二〇センチの上方に開いた形状で、突帯の幅が広くて低い特色を有していた。内部構造は木棺直葬かとみられ、剣状鉄製品と鉄小札の破片六片を採集したにとどまる。鉄小札は頭端が半円形をなし、幅三センチ、厚さ一・五ミリで完形品はなかった。前回の市誌では古墳の年代を中期末あるいは後期の初頭かと推定するにとどまった。

 市立第三中学校の北に接する東板持の寿美ケ丘団地には、もと丘陵の稜線上に二基の古墳があった。開発以前すでに果樹園として低い墳丘の隆起しか認められなかったが、北側が全長三〇メートル程度の南北に長軸をもつ小型の前方後円墳状のもので、南側に直径六~七メートル、高さ二メートルの円墳かとみられるものがあった。一九五〇年ごろ埴輪片を採集し、その中に拓本として掲示したように草摺形あるいは家形かと思われる形象埴輪の破片を含んでいた(174・175)。周囲の状況から古墳であることはほぼ確実と判断されたものの、果樹園として利用されていた当時はそれ以上の調査をすることはできなかった。残念なことに内部構造に関して全く不明のまま、一九六〇年代の宅地造成によって消滅してしまった。埴輪の形状と墳丘の立地からすると前期古墳に属するものであったようである。出土遺物があったかどうかについては聞いていない。

 中野のお亀石古墳の西方には丘陵が続いているが、古墳の西方約五〇メートルの南斜面上から小型、薄手の塼破片を採集したことがある。一九五〇年以前のことで、お亀石古墳と同様な石室墳が構築されているのではないかと予想して数度調査したことがあるが、まだ遺構として手がかりになるものを得ていない。

 昭和町の西方、PL教団に至る坂道の南に接して六反池がある。池の南側に西向きに前方部をもつと解してもよい前方後円墳状の独立した小丘があり、一応、六反池古墳と命名した。古墳とすれば全長六〇メートル程度のもので、円筒埴輪片を採集したとも伝えるが、今後の精査にまたねばならない。