川西の新家から西に通じる道路が、廿山に至る手前の南側の丘陵上に位置する前期の前方後円墳である。羽曳野丘陵は、この付近では前面の河岸段丘と明瞭な傾斜変換線をなして接し、その間に複雑に開析された谷を入り組ませている。廿山古墳はその中の丘陵支脈のうち、廿山の東南部にあたって、南東に向かい突出した長さ三五〇メートル、幅一五〇メートルの支脈の最高点を占めて営まれたものである。北側には谷口をせきとめて形成された葛池と呼ぶ灌漑用水池を介して、廿山集落の中央を東西に通じる府道森屋狭山線が走り、その北の丘陵突端にある廿山共同墓地と相対している(286)。
丘陵の最高点は一三五・二メートルあり、それが廿山古墳の後円部の海抜標高をも示していて、東麓の段丘面の高さが九七・二メートルあるから、丘陵としての比高は三八メートルとなる。古墳は前方部を南東の平地に向けていて、墳丘の長軸は磁北に対して六六度西に偏している。墳丘の規模を実測図についてみると、全長四八メートル、後円部の直径三五メートル、高さ五・五メートル、前方部の幅は二〇メートルある。後円部と前方部の上面との高さの差は四メートルにも達するが、丘陵自体が東南方に向かって傾斜しているので、墳丘自体がこの斜面上にあるため、前方部の正面での高さは三・五メートルあることになる。前方後円墳としては比較的大きな後円部に、低くて短小な前方部を設けたという形状を呈している。ただし、一九七一年四月一八日に古墳を実査した当時の野帳によると、墳丘の規模を実際の地形からかなり小さく見積もっていて、全長四〇メートル、後円部の直径二八メートル、前方部の幅一一メートルと略測している。これらの数値は墳丘斜面の傾斜変換線をやや上方に求めたためと思われるので、前者の地形実測図から積算した数値を採用すべきであろう。当時、この丘陵は山火事に逢ったため、表面の観察には好都合であった。それによると後円部の中央に直径五メートルの盗掘孔が深く穿たれ、南側の墳丘が掘り取られ、中心に向かって大きな溝を掘り込んだ形となっていた(287)。