廿山古墳から遺物が出土したのは一八八三年、すなわち明治一六年一月のことである。この遺物が当時の東京帝室博物館に収容され、三〇年余りもたった一九一五年になって始めて遺跡の調査が行なわれて、学界に報告された。梅原末治氏は「廿山の廃塚」という項目の下につぎのように記している(梅原末治「近時調査せる河内の古墳(上)」(『考古学雑誌』五―三、一九一四年)。
河西村<ママ>大字廿山の東南方約二町の丘陵上にあり、此地東、北の二面石川の平野を瞰下し、頗る形勝の地を占む。円塚にして、高さ約二間、径約五間の封土存せるも中央部は掘り取りありて全く破壊され、今残るは骸のみ。土人の談に依るに今より二十数年前之を発掘せしに塚穴(石槨)ありて、内部より刀剣、鏡、鉄鏃等を発見せり、塚は其時壊ししものなりと。ママ>
現在の時点でこの概報を検討してみると、はたしてこれが銅鏃を出土した廿山古墳を指すものか疑念を抱くほどであるが、「廿山の東南方約二町の丘陵上」にあって「東、北の二面石川の平野を瞰下し、頗る形勝の地を占む」という地理的記述からみて、この古墳以外には該当するものを見出せない。そして一九二六年に『漢式鏡』を著した後藤守一氏は、「本邦内地に於ける漢式鏡発掘地々名表」の河内国の項に、梅原末治氏が報告したこの『考古学雑誌』の巻・号を注記して「河西村大字廿山字二本木」の地名を上げているので、両者は同じ古墳を指していることは確実である。