出土遺物の補正

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後藤氏の地名表は『明治十七年埋蔵物録』によって補正され、またその後の梅原氏との聞書で新たな知見が加えられたようである。すなわち同書の本文中の解説には

河内国南河内郡河西村大字廿山字本木<ママ>は、銅鏃三十一個のみを発見した古墳として地方庁報告書にあるが(明治十七埋蔵物録)梅原末治君は古鏡をも発見したと余に教へられてゐる。しかしその型式はわからない。

とある。『明治十七年埋蔵物録』は筆者自身、一九五三年夏に前『富田林市誌』執筆の資料を集めるため、東京国立博物館に出張した際、実見したことがある。その内容は戸籍台帳風に地名と物件を列挙したものであって、本古墳の地名「廿山」を誤って「竹山」と記載し、銅鏃の件名と個数を記していたことを記憶している。

 後藤氏は地名表に遺物の出土年月を「明治十六年(一八八三年)一月」と明記して、古墳の内容を「円墳、粘土詰の木棺か」と説明し、出土遺物を型式不明の鏡の他「銅鏃、刀剣、鉄鏃」と列挙している。内部構造を粘土詰の木棺かとしたのは、さきに引用した梅原氏の塚穴(石槨)があったという地元民の談話と大きく食い違っているが、おそらくこれは後藤氏自身が内部構造に関して新しい知見を得た結果として訂正したものであろう。一九五〇年代の初頭、本古墳の後円部の盗掘孔内部の状況について詳細に観察した際も、石材の遺存は全く認めず、盗掘孔の壁面にあらわれた層位からも、地山上に茶褐色粘土質山土が一メートル程度堆積していて、一部分に灰色を呈する粘土塊が包含されている程度であることを知った。いま改めて検討してみても、これらの事実から帰納されるのは、後藤氏が推測したように木棺を包蔵した粘土槨であろうという結論であって、すでに記したように後円部西北側の上部斜面に、排水溝の末端部分かと推定される礫石敷の施設が認められたことも、この結論を消極的ながら支持すると考えられるのである。