出土遺物としては、銅鏃九本のみが東京国立博物館の収蔵品として現存している。これについて『東京国立博物館収蔵品目録(考古・土俗・法隆寺献納宝物)』(一九五六年)編中に記載があって「富田林市錦郡(元南河内郡錦郡村)字竹山」とある。「字竹山」は前述したように『明治十七年埋蔵物録』原簿記載の誤記にもとづいていることで、錦郡村が廿山村でなければならぬ点も関係者の錯誤によるものであろう。九本の銅鏃が同博物館の台帳番号として「七〇〇―七〇八」と比較的若い番号を有しているのは、収蔵時期が一八八一年に上野公園の内務省博物館新館が竣工後、農商務省博物館、宮内省博物館と所管がしばしば変更された初期の段階に受け入れられたことを示している。いいかえると『明治十七年埋蔵物録』中に前年の「明治十六年一月」出土と記載されていることから察せられるように、むしろ廿山古墳から地元の村民の手で発掘された直後、これらの銅鏃は官の保管の手に移ったという事情を推測できるのではあるまいか。とすると、当時の発掘で銅鏃と同時に出土した他の遺物はおそらくなく、梅原氏が発掘から約三〇年後に地元民から聴取した出土遺物の品目、すなわち後藤氏の補正に従えば銅鏃以外の銅鏡、刀剣、鉄鏃は、さらにその後に村民らの再度の発掘によって出土した可能性しか考えられないことになる。明治一六年からすでに一〇〇年も経過していて、これらの内容に関しては別に新たな記録でも発見されない限り、もはやこれ以上にはわからない。ただ前期古墳として銅鏃のほかに銅鏡、刀剣、鉄鏃なども副葬していた可能性は充分ありうる。