古墳と調査の経過

368 ~ 368

真名井古墳は、市内大字新堂二六〇四番地に存在していた。

近鉄線喜志駅の西南方約一キロのところに羽曳野丘陵の一支脈が突出してできた小丘陵がある。この小丘陵の突端の標高は九三メートルで、東に広がる平地との比高差は三〇メートルに近い。頂上からは、石川によって形成された河岸段丘上のよく手入れされた水田や、あちこちに点在する新しい住宅団地、古い集落の眺望がすばらしい。この景勝の地を占めて、古墳は造営されていた。なお、本古墳の南北両側の谷あいにある池は、あたかも古墳の周濠のごとき観があるが、これは古墳とは関係なく後世に設けられた灌漑用池である。ついでながら、北側の池を隔てて式内社美具久留御魂神社があり、この地の歴史の古さが思われる(考古三)(289)。

289 真名井古墳所在地図 (1:15000)

 この真名井古墳の存在が判明したのは、太平洋戦争後、この丘陵一帯で果樹園造成のための開墾が行なわれ、埴輪円筒片が散布するようになってからであった。一九六一年に至り不動産会社がこの地域を買収し、宅地造営工事を行なうことになったため、同年八月一九日から約一カ月間にわたり、大阪大学文学部国史研究室を主体とする発掘調査が行なわれた。調査の結果、左記の事実が明らかになった。