この古墳の形状は丘陵を利用した前方後円墳の型式に属している。墳丘の全長六〇メートル、後円部の直径四〇メートル、前方部の幅二〇メートル、後円部の高さ五メートル、前方部の高さ一メートルである。丘陵の稜線上に築かれている点から前期古墳と判断できるが、本古墳は丘陵の地形に制約されて西方の低平な前方部の方に向かって基底面が上昇しており、そのため、東側の後円部と前方部との高さの差は二メートルにすぎない。また、後円部の内部主体も詳細は後述するが、自然の山丘に深く穿った墓壙中に設ける通例の方法とは異なり、墓壙の周辺は人為的に土を盛り上げた封土からなっている。このように前期の前方後円墳としての条件を満たすことを要求されなかったところに本古墳の年代と地域的性格が示されている。
なお、墳丘に段築は認められなかった。また、戦後の開墾に際して前記の神社との関係から後円部の上部と前方部の一部には鍬が入れられなかったので、その部分は原形がよく保存されてきたと考えられる(290)。
石川の河原石による葺石は、当初墳丘斜面の全面にあったと考えられるが、開墾でほとんど失われ、わずかに後円部の東側斜面の中腹(三個の円筒埴輪H1H2H3とともに)、南西側斜面(円筒埴輪H6とともに)、前方部正面先端(円筒埴輪H7H8とともに)の三カ所に残っているのみであった。この中で前方部の葺石は、長さ約五メートル、幅一・五メートルにわたってほぼ完全な状態で認められ、その配列は幅一・五メートルの上縁と下縁に二〇センチ大の大きい石を横一列にならべ、下縁ではそれが基礎となって、その上に一〇センチほどの丸石を小口に積んでいる状況を観察することができた。
円筒埴輪は前記の他、H1H2H3と同じ高さの後円部南東、および南西で一個ずつH4H5を発掘した。これにより、墳頂より三メートル下方に間隔をほぼ一メートルとった埴輪円筒列が存在したことが知られた。つぎに、H6はH1~H5より下方約二メートルにあり、やや厚手(約一センチ、H1~H5は約六ミリ)で、これは葺石の状態から墳丘の周縁に当たると考えられた。これより埴輪円筒列は三段あったが墳頂縁辺に沿ってあったと思われる上段は全く流失し、これら中・下段を残すのみとなったと考えられた。形象埴輪は鋸歯文を刻したものや、厚手の板状品に沈線を描いたものなど、小破片を数片得たのみであった。