本古墳の内部構造は後円部の中心に営まれた粘土槨のみであって、後円部にも前方部にもほかに埋葬施設と認められるものは全くなかった。本古墳の特色は、通例の前期古墳のように地山を深く掘って墓壙を造るのでなく、地山はわずかに削るのみで、盛土によって墓壙を造っているところにある。木棺の埋納にいたるまでの内部構造はかなり複雑であるので、つぎにどのように構築されたかを順に説明していくことにしよう(考古一三~一五)(291)。
まず、地山を五センチ削って長さ五・六メートル、幅〇・九メートルの基台をつくり、周囲は約一五センチ掘り下げた幅〇・九メートルの凹所を設ける。凹所の外側は地山の表面に連なっているので、こちら側の深さは約二〇センチとなる。この凹所の西南隅から〇・五メートル東に寄ったところから西方に向かって、緩やかな傾斜の幅二五センチ、深さ三〇センチ、長さ六・八メートルの溝をつくり、凹所およびこの溝を径五センチ内外の円礫で埋めつくす(凹所は溝の始端に向かってごくわずかずつ傾斜し、溝の末端は墳丘のくびれ部に達していて排水の役目を果たすことになる)(292)。この後、溝の始端に板石七枚で蓋をしてから中央に七×二・五メートルの空間を残して周囲の地山上に約七〇センチの高さに達するまで少しずつ土盛りをしては撞き固める(293)。ついで、中央の基台の上に粘土が直接置かれるが、木棺を安定させるため浅い樋状に整えられている。この上に全長五・三三メートル、幅は東端で約六五センチ、西端で約五三センチの木棺が安置されたと考えられる。
この木棺の材質は全く不明だが、形状は高さ約五〇センチの側板を両側に立て、別に底部に丸味をもつ底板との組み合わせから形作られ、両端の小口板は五~六センチの厚さで、棺身の断面より幅と高さがそれぞれ三センチほど大きく、底と側面の粘土に喰い込んだ痕が残っていた。両小口板間の内法は五・二三メートルである。この木棺に槨底部よりやや質の劣る粘土を棺蓋の高さに達するまで壁体として貼り付け、つぎに周囲の墓壙に山土を満たしてから棺蓋上部を除いて墓壙の内外におよぶ上面に白色土を薄く散布し、さらに、その上に棺蓋を中心として長さ六・一メートル、幅一・六メートルの広さに粘土被覆が施されて主体部の施設は完成し、これら全体の上に厚さ五〇センチにおよぶ黄色土の山土を全面に積み上げることによって構築は終了する。