本古墳は長軸を南北方向に置き、前方部は南面している。後円部はおおむね五メートルないし六メートルの高さを有しているものと考えられ、墳丘と周辺の丘陵部分との境界は明瞭でないため、平面の規模を厳密に決定できないが、全長約五八メートル、前方部長約二八メートル、前方部最大幅約二四メートル、後円部径三〇メートルである。いま一九七八年に墳丘を含む周辺を実測した際の所見を記すと前方部東斜面は封土が流失し、緩やかな傾斜をなすが、前方部の頂上から南と西の両斜面にかけては、比較的原形をよく保っている。くびれ部は流失土のため明確ではない。測量成果から判断すると前方部はくびれ部から先端にかけて左右ともにやや拡がるようである。後円部は東~南斜面では緩やかで、北側斜面は封土を削り取られて崖面をなす部分も多いが、西側斜面は原状をよく保存している。後円部の頂上は、平坦でかなりの量の盛土が東~南斜面に押し流されたようである。墳丘はきわめて不明確ではあるが、等高線および現地踏査の観察から後円部は二段築成であったと推定される(301)。
測量時には葺石等の外護施設は認めなかったが、後円部北東方の斜面中腹において円筒埴輪片や朝顔形埴輪片十余点を採集しえた。その地点は推定段築線とほぼ一致する。この円筒埴輪は、タガが細く高く、整形刷毛痕なとから、真名井古墳出土のそれと時期的に並行すると思われる。なお一九三〇年前後に、銅鏡一面が本古墳付近から出土したと伝え、この付近一帯には南方に真名井古墳、北方に鍋塚古墳などの前期古墳が存在することとからすると前期を通じて古墳が次々に作られたものと考えられる。