市内大字喜志二〇五五番地にあった古墳で、一九六六年初秋に、宅地造成工事で一部が破壊されたため、大阪府教育委員会の緊急調査が行なわれた。その後、古墳は全く削平されて姿を消したので、同委員会による『鍋塚古墳発掘調査概要』などをもとにして紹介したい。
古墳は羽曳野丘陵の東縁で、北方に延びた一支脈の突端にあり、美具久留御魂神社社殿から北方に約三〇〇メートル離れている(307)。この丘陵支脈は標高八七・七メートルで東方の平地とは約三〇メートルの比高差をもち、眺望にめぐまれた位置を占めていた。墳丘の形状は円墳で直径二五メートル、高さ三メートルの規模からなり、東側の裾には浅い溝をめぐらし、その内側に一・五~二メートルの間隔をおいて円筒埴輪をめぐらしていた。埴輪の中には円筒のほか朝顔形もあり、家形の形象埴輪片も採集されている(308)。
調査当時、墳丘の西半は破壊されていたが、中央やや東寄りのところに長さ一・七メートル、幅一メートル、深さ〇・二メートルの範囲に内部施設が残存しているのを発見した。この施設は地山に穿たれた隅角部の丸い土壙状のもので、長軸を東西方向においていたというから、もと五~六メートルの長さの土壙の東端の一部分だけが残っていたらしい。たんに地山を浅く掘りくぼめただけの土壙で、板石や粘土を用いていなかったことからみると、きわめて簡単な構造である。
遺物はこの土壙の中央の地表から二五センチの深さのところに、鉄方形板革綴短甲一領があり、内部に二七本の鉄鏃がおさめられていたかと考えられる状態で出土したほか、その西に接して、朝顔形埴輪の上部破片が破砕した状態で存在した。短甲は西向きにおかれていたらしいが、革紐が朽失して解体し、土圧のために圧砕されていた。府教委の井藤氏によると、後胴の復原高は四六センチ、地板は長側の部分に一〇×一二センチの方形をした鉄板を用い、竪上には縦八・七センチ、横幅一八センチのものも用いられていて、二・五~三センチの間隔で威孔が穿たれているという。なお、出土状態の写真でみると、竪上 長側の各部に帯金も用いられていたらしいが、押付板の形状は明らかではない。構造と手法からみて、四世紀末から五世紀前半にかけて用いられた方形板革綴短甲のグループに属するものである(309)。
二七本の鉄鏃はすべて八センチ内外の長さで、幅約一・五センチの大きさをもち、頭部が椿葉形ないし柳葉形をしていて、鏃身に鎬が認められるものが多い。また、茎の部分には矢竹と、その上面に巻き付けたサクラの皮を遺存するものもあるという。また出土位置は明らかではないが、刀子二本があって、それぞれ現存長八センチ、六・五センチあり、茎に目釘孔が一個ずつあけられている。
土壙内から出た朝顔形埴輪は、おそらく墳頂部に樹てられていたものが混入したものであろう。上部から肩部にいたる破片で、高さ二二センチ、口縁の外径は四七センチ、頸部の外径は一五・五センチの大きさをもち、厚さ一センチと報告されている。なお、円筒埴輪は残存高三五センチ、直径二〇センチ内外、厚さ約一センチで、タガの幅は約一センチある(考古二〇―(2))。表面に刷毛目が顕著で、胎土に砂粒を含んでいる。なお、鍋塚出土という所伝のもとに、鋸歯文をもった面径約一〇センチの銅鏡一面と石釧、石製刀子、有孔石製品など一二個が存在している。この美具久留御魂神社の境内には別項のように古墳が多く分布しているので、厳密な出土墳を限定しかねるが、これらの遺物は時期的にみて本古墳から出土しても矛盾しない。
鍋塚古墳の内部構造と副葬品は一部分を残していたにすぎないものの、墳丘の立地と長方形板革綴式短甲は前期古墳の様相を備えている。おそらく真名井古墳よりも若干新しい四世紀末に属するものであろう。
また別に、旭ケ岡出土と伝える半円方形帯神獣鏡もあって(考古二〇―(1))、板持丸山古墳出土鏡に似た三神三獣の図像を内区に配置している。ただ外区は半円方形帯の外に鋸歯文帯を重ねていて、丸山古墳の菱雲文とは相違している。いま鏡背の大部分を緑銹がおおい、内区の一部に破孔がある。京都大学の文学部博物館には、喜志出土の六獣鏡一面が収蔵されている。解説(『京大文学部博物館考古資料目録・日本歴史時代』)によると「仿製。緑銹が全面を覆う。鏡面には布跡が銹着。一部に朱が付着」とある。面径は一六・八センチである(310)。これらの資料からみると、美具久留御魂神社境内を含む南北約一キロの同丘陵一帯には、前期の古墳が点々と分布し、関連する遺物が出土していたらしい。鍋塚古墳もまたその一つとして位置づけるべきものであって、石川谷中流域に勢力を張った有力な氏族集団の一人を被葬者とすると考えられる。式内社としての美具久留御魂神社の存在は、これらの氏族と深い関係をもって古く成立したことを推測させる。ただこの地域には中期に属する古墳が見当たらないので、五世紀における地方権力の消長の問題を、下流域に古市古墳群が形成される過程とあわせて今後検討していくことが必要であろう。(松井忠春)