近鉄長野線川西駅の西方約一キロを隔てた地点にある。すなわち、廿山集落の中心を通る千早森屋狭山線の道路上から見れば谷を介して北東約三〇〇メートルの羽曳野丘陵上に位置する。標高は墳丘頂上で一三〇・六メートルを測る。現状は雑木林で覆われている。本墳の墳丘測量調査は一九七六年に実施された。ここではその時の実地踏査および墳丘測量図にもとづいて概略を説明することにしよう(311)。
基底のプランは当然方形であり、墳丘の四隅は稜線をなし頂上は平坦である。墳丘の東北隅および西南隅は封土の流失により少し変形しているが、東北隅とか東南隅の比較的よく原形をとどめた部分から墳丘規模を推定するならば、一辺約三二メートル、高さ七メートル前後の二段築成の方墳になろう。墳丘上には埴輪・葺石等の外部施設は一切認められない。また、内部構造や出土遺物についても一切わからない。ただ、墳丘の東西に認められる池が周濠を想起させるが、おそらく水田の灌流用に掘削されたものだろう。本丘陵上には数多くの灌概用溜池があり、また地形的にも周濠は築造しがたいと考えるからである(312)。
最後に、本墳の築造年代に関してであるが、先述したように全く決め手を欠いている。ただ、少々西に偏しながらも各辺が東西又は南北の線におよそ一致していると言う、古墳時代でも後期に属する方墳が持つ特徴を備えていることを指摘するにとどめておく。
地元の廿山でもこの古墳に関する所伝を全く有していない。その理由の一つは、古墳の立地が羽曳野丘陵の東縁から四〇〇メートル近くも丘陵中に入っていて、樹枝状に複雑に出入する主脈の尾根上に位置しているため古墳の存在が目立たなかった結果と考えられる。この程度の規模をもつ方墳はもはや小型墳とはいえないものの、周辺にこれと関係をもって営まれた他の古墳は見当たらず、ただ一基だけが丘陵中に独立して存在する地域的背景についてはまだよく説明できない。(竹谷俊夫)