6 板持丸山古墳

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 東板持のすぐ南に接した丘陵突端に営まれていた円墳である。もとは直径三五メートル、高さ四メートルの規模をなし、墳頂は開墾されて畑地となっていたが、一九六七年六月に宅地造成の犠牲となって、全く発掘調査の行なわれない間に破壊、消滅した(考古二二―(1))。この古墳から一九〇三年二月に変形半円方形帯神獣鏡という銅鏡一面が出土していて、現在東京国立博物館の収蔵品となっていることで知られている(314)。

314 板持丸山古墳出土の変形半円方形帯神獣鏡拓本、断面図

 古墳は石川の東岸にあたり、幅広い沖積平地を介して、河岸からは約一キロ離れた丘陵の北端に立地している。丘陵は東側に宇奈田川、西側に佐備川が流れ、周囲の平地と古墳との比高差は一五メートルほどある。墳丘上に立つと遠方は石川を介して羽曳野丘陵の全景を見渡し、山中田と東西両板持を眼下に眺望することができる点で、石川谷の古墳の特色をよく示していたことからも、この古墳の価値は高いものであった(313)。一九六七年以前は階段状の水田の中央にあって、墳丘の表面に円筒埴輪片が散布し、器形不明の形象埴輪片も採集したことがある。墳丘がブルドーザーで破壊された当時、多数の埴輪片と葺石の散布を認めた。

313 板持丸山古墳所在地図 (1:15000)

 墳丘内部の構造を確認する機会がえられなかったので、たんに推測するしか方法がない。一九〇三年に銅鏡を発掘した際の状況として、地元では墳丘の一角から遺物だけを単独で取り出したとしていることや、一九六七年に破壊された直後実地に臨んだ際に、埴輪片や葺石が封土中に混じているほか、板石などの存在は全く認めなかったため、内部構造はおそらく竪穴式石室ではなくて、せいぜい粘土槨程度の簡単な施設であった可能性が強い。いずれにせよ、出土遺物が東京国立博物館に収蔵されていて周知の古墳であったにもかかわらず、未調査のままで破壊してしまったのはきわめて残念なことといわねばならない。

 一九〇三年に銅鏡が出土したのはもちろん発掘調査によるものではなかったが、地元東板持の仲野カルヲ氏のもとに出土当時の興味ある記録が保存されている。それは三〇センチ角の和紙に鏡背の文様を捺印したもので、どうやら拓本ではなく鏡背に直接墨汁を塗って和紙を押し付けたものらしい(口絵参照)。鈕が真中にあるために内区の文様は不鮮明な写りであるが、半円方形帯から外区にかけては比較的明瞭で、東京国立博物館に本古墳からの出土として収蔵されている鏡と同一であることを確認できる。周囲に注記があって「仲ノ丑松より文造かり・目方百四匁・三十六年二月一日・丸さ五寸三分・あつさをよそ<ママ>二分三厘ほど・やくしょ上げ日二月五日」とある。これによると鏡は明治三六年(一九〇三年)二月一日に出土し、二月五日富田林町にあった郡役所に現物を提出した顛末と、重量、直径、周縁部の厚さを後日の心覚えとして記録したものとみられるのである。口絵の解説に記したように、このように走り書程度のものであっても今日からみると出土地を確定する立派な記録であって、倉卒の間に仲野丑松氏から銅鏡を借用して鏡背の文様を印写し、要点を記録した仲野文造氏の熱意には敬意を表さねばならない。文造氏は文蔵と書くのが戸籍からは正しいらしいが、安政元年すなわち一八五四年に生まれ、大正九年すなわち一九二〇年に六七歳で死去している。鏡の出土した一九〇三年はちょうど五〇歳の時にあたり、昔風にいえばぼつぼつ隠居をしようかという年齢である。一方の丑松氏はこれより若く一八五八年に生まれ、一九〇三年当時は四五歳で、一九三〇年に七三歳で死去している。これらの当事者が存命ならば出土時の状況や伴出品の有無について、もっと詳しいことが明らかにできた筈である。

 この銅鏡は東京国立博物館では出土地を「大伴字板持領内字丸山」として登録され、台帳番号は「一三一九一」となっている。直径一六・一センチ、低い三角縁の内側に一種の菱形文をめぐらす外区があり、内区との間に半円方形帯を配している。方格内部は二本の平行した十字線で四区画に分かち、それぞれの小区画内に小円を配して文字を欠いている点で、日本で鋳造された仿製鏡と断定できる(考古二二―(2))。半円方形の空間は珠文で埋めている。内区の三神像・三獣形も著しく簡単化していて、神像は肉厚の蛾形の表現となり、獣形は本来の姿を失って地文の流水状渦文に囲まれている。これらの点からみると、原形の中国鏡の鏡式からはかけ離れた図形表現となっていて、中国の三国あるいは六朝代神獣鏡のどの鏡式をモデルにしたのか判断しがたいほどに日本化した文様ということができる。表面が浅緑色の光沢をもち、比較的錫分の多い青銅である。

 一九六七年に宅地造成のため無届けで破壊された当時、葺石や円筒埴輪片に混じて、円鐶をもつ鉄器片が富田林高校考古クラブの手で採集されている(315)。残存長八・五センチ、環径約四・五センチ、太さ〇・七センチで、一端に分岐した突起がある。これを鉄製素環頭とみる説もあるが、直ちに賛成しかねる形状である。

315 板持丸山古墳出土の鉄器片実測図

 後藤守一氏はこの鏡を「変形半円方格帯放射線式神獣鏡」と称してつぎのように説明している(後藤守一『漢式鏡』一九二六年)。

素円座鈕を繞って有節重弧文圏あり、六乳によって等分せられた内区には、神像及獣像が交互に配せられているが、共に著るしく変形し、かつ渦文を以て填充されてゐる。或は之を鼉竜(だりゅう)鏡の変形様式とも見られるであろう。有節重弧文帯を以て半円方形帯と界しているのは珍しい。半円方形共に変形し、方形には文字なく、半円部には雲文を配している。外区は外行鋸歯文帯菱雲文帯から素縁に終ってゐる。

 この鏡を最初にとりあげた富岡謙蔵氏は半円方形帯をもつ点に注目し「内区に配せる神像には脇侍ありて、像の周辺は渦紋化せるも略ぼ原形を認む可く」と解説した(富岡謙蔵「日本仿製古鏡に就いて」『古鏡の研究』一九二〇年)。半円方形帯の銘区が小円で表現され、空間を珠文で埋めていることや、外区に菱雲文を配置していることなどは、山口県柳井古墳、奈良県新山古墳、同佐味田古墳出土の鼉竜鏡と共通した表現である。