東板持の集落から始まって南に延びる南北の長さ約一・五キロ、東西の幅約〇・五キロの独立した小丘陵のほぼ中央に位置していた古墳群である。この丘陵は最も高いところでも周囲との比高差は五〇メートル程度にすぎず、東は直ちに河南町に接し、西は佐備川の谷を隔てて下佐備と対している。この地域における古墳は三基で、その中の1号墳は現在第三中学校と今池との間の小丘陵の一部に残っているものの、2・3号墳は山手町の開発によって調査ののち消滅してしまった(316)。地形からみるとこの周辺にはなお小規模な古墳が分布している可能性もあり、将来さらに入念な分布調査により埋蔵文化財の保存を図らねばならぬ地域であろう。これらを一括して板持古墳群と総称しない理由は、2号墳が後期古墳、3号墳が前期古墳というように時期を異にして営まれた古墳からなるためで、さらに近年河南町寛弘寺周辺の分布調査で、谷を隔てた東方の丘陵上にも前期から後期にかけて小古墳がいくつか存在することが明らかになってきた事情による。すなわち富田林市と河南町の両地域にまたがり、従来からよく知られた寛弘寺古墳群をも含めて、広い地域に前期~後期の古墳が集中している点で、板持の2・3号墳もこれらとの関係から再検討する必要があろう。
一九六七年にこの地域一帯の開発計画に先がけて分布調査を行なったところ、松と雑木におおわれた丘陵背に点々と古墳の可能性をもつ地形の隆起が認められ、その総数は五基に達した。ただしいずれも地表面に葺石や埴輪片の散布を認めず、実測と試掘の結果をまたなければ古墳と判断できないものばかりであった。とりあえず開発地域内の三基を対象に調査したところ、一基は古墳ではないことが判明したので、他を2・3号墳と称することにした。なお1号墳は地域外の北に位置し、保存できることが明らかとなったので、調査の対象からはずした。1号墳は円墳で直径一五メートル、高さ約二メートルの規模をもっている。