棺内に副葬された遺物としては、中央付近から発見された刀子一本があったにすぎない。刀子は鋒を北に向けて置かれ、長さ一五センチ余り、刀身の幅二センチ、厚さ〇・五センチ、茎長は五センチあって、柄を着装していたらしく、木質物が付着していた。
棺外では棺の東側に接して鋒を南に向けた鉄鏃六本が束ねた状況で一括して置かれていた。この形状は二種あり、平根式二本と細根式四本とからなる。平根式は長さ五・五センチ、幅三センチ、厚さ〇・三センチの幅広い両丸造りの鏃身に、細長い箆被ぎと茎をつけたもので、全長は一三・五センチある。細根式は幅一センチ、厚さ〇・五センチの鳥舌形の鏃身にやはり細長い箆被ぎと茎をもつもので、長短二種あり、最も長いもので全長一四・五センチある。
興味があるのは棺を安置して、ある程度埋めたのち南端の小口に接する外側に、大量の土製丸玉と須恵器、土師器を副葬していたことである。土製丸玉は約四〇〇個あり、外見的に見ると低火度に焼成し濃紺色を呈するように加工していて、材質的に土製とみてよいかどうか検討する余地を残している。すべて球形をなし、最大径約一センチ、最小径〇・五センチと不揃いな大きさであるが、いずれも内径一ミリの穿孔を有している。
須恵器は蓋杯に属し、杯蓋二、杯身四からなる。大きさはほぼ同じもので直径一六センチ、高さ約五センチあり、蓋は天井部につまみがなく、体部に段をなして移行する。身は体部から底部にかけて浅く、受部は強く外方に作り出されているものの、立ち上がりは内方に傾斜している。身の底部に×印のヘラ記号をもつものもある。六世紀初頭から前半にかけてのもので、この2号墳の年代は須恵器の型式によって決定すべきものであろう。焼成は良好である。
土師器は高さ一六センチ、口径八センチ、腹径一五センチの球形の体部に直口縁をもつ坩で、わずかに口縁が外反する。淡赤褐色軟質の焼成品。
すでに述べたように2号墳は木棺直葬の土壙墓で、副葬品も乏しく、内部構造の上から年代を決定する手がかりは少ないが、副葬された須恵器をもとにすると、六世紀前半に営まれた後期古墳と解することができる。