第3号墳はこの2号墳から南南東に約一〇〇メートル離れて位置していたもので、標高は一〇八メートルあり、西側の平地との比高差は四〇メートルに近い。地形的に見ると、佐備川に臨む丘陵の細長い西縁の支脈にあたり、2号墳から南に続く丘陵がこの地点で高さと幅を増して東方に突出する最高地点を占めるところである。この東方には深い支谷が北北東に向かって開析され、末端はせきとめられて今池と称する灌漑用水池をなしていた。一九八〇年代前半期の現在、この今池はまだ原状のまま残っているので、古墳の位置を地図上では求めることができるが、古墳自体は山手町の造成地域内にあって全くその姿を消滅した。
調査当時、この3号墳は深く生い茂った雑木林の中にあり、墳丘の規模や形状を確定することは困難であった。ところが、一帯の雑木を広く伐材して墳丘実測図を作製したところ、意外なことに西北方に前方部を向けた前方後方墳となることが判明した。墳丘自体の規模は大きなものではなく、全長約四〇メートル、後方部の幅は約二五メートル、同高さは四メートル、前方部の幅は約一五メートル、同高さは二・五メートルにすぎない。前方後方墳としての特色は、後方部の東、北および南の各辺の等高線が墳頂に近い部分まで直線をなすこと、それぞれの隅角部が比較的明瞭に直角をなすことなどである。この外形がほぼ墳丘築造時の原形をとどめていることは、南側の中腹部に奈良時代の火葬墳墓が埋葬時の状況を保って遺存していた事実からも裏づけられる。ただ墳丘には葺石や埴輪などの表飾施設を全く営んでいなかったため、墳丘の下縁や細部の形状を確認することができなかったのは、遺憾というほかはない。墳丘の形状も前方部が緩やかに傾斜する丸味を帯びた舌状をなし、くびれ部が明瞭でないなど、前方後方墳とはいえ、かなり崩れた感を与えることは否めない。なお封土としての盛土は後方部上で約〇・五メートルの厚さに認めたにすぎず、墳丘の大部分は丘陵の隆起を利用して、これを修飾したものと考えられる(319)。