墳丘は既掘のあとを認めなかったので、棺内は撹乱されず、すべて原位置に存在したものの、副葬品の量はわずかで、とくに玉類は遺存しなかった。いま遺物の品目をあげると、銅鏡一面、鉄製短剣三口、鉄斧一口、銅鏃十数本、鉄鏃十数本などすべて金属製品ばかりである。
遺物の配列は棺の西端から一メートル内方に重圏文鏡と短剣が接して置かれ、その東方の北側に短剣状鉄器が鋒を西に向けて存在した。それに相対して南側に鉄短剣・鉄鏃・鉄斧が一括してあり、さらに中央の南側に鉄鏃のみ数本、ついで銅鏃と鉄鏃とが一括して遺存し、最後にその北側に鉄鏃のみを配置することで終わっていて、棺内東半には遺物を全く認めなかった。おそらく水銀朱と思われる赤色顔料が鏡の付近で最も鮮やかに遺存し、他はきわめて稀薄であったことからすると、遺物の配列とあわせて頭位は西にあったと見るべきであろう。木棺の一部と認められる木質物の小片が銅鏡と銅鏃の下にわずかに遺存し、その他に朱彩した漆膜片が鏡の上方に載っていたが、どのような器物の痕跡であるかは分からない(320)。
銅鏡は面径八センチで鏡縁は平縁をなし、内区は鈕の周囲に四重の重圏文と鋸歯文帯をめぐらしている。鈕の周辺に小孔を配置しているのを認めるが、表面の銹化は甚だしく発掘当時すでに十数片に破砕してしまっていた。鉄製短剣は長さ二〇センチ、うち剣身部は一六センチあり、幅は三センチ、厚さは〇・三センチある。茎が舌状をなし、うち一口には目釘孔が遺存している。この中の二口は鎗身として使用されたものかもしれない。鉄斧は長さ九センチ、刃幅四センチ、無肩式で袋穂をもつ。鉄鏃はいずれも有茎椿葉式で、全長九・五センチ、鏃身の長さ七センチ、幅二・五センチ、厚さ〇・三センチ、両面に鎬をもち、断面は菱形を呈する。
銅鏃は鉄鏃に比べると小型で、形に若干の差異をもつものの柳葉式に属し、すべて茎を有している。全長四・五センチ内外、このうち鏃身の長さは二・五センチ、幅は一・五センチある。鎬を有し、断面は菱形。茎に矢竹の遺存するものがあり、サクラの皮を表面に巻いている。