石川の西岸に位置する市内谷川町、南甲田から石川を介して嶽山を見ると、対岸の低地に臨んで、約二〇メートルの比高差をもつ顕著な河岸段丘が幅広く形成されているのがまず眼に入る。彼方丸山古墳はこの段丘上のほぼ中央に営まれた古墳であって、楠風台の大規模な宅地造成が密集する以前は、かなり遠方からでもこの墳丘を望見することができた。この古墳をとくに彼方丸山と称するのは、東方に近接した板持にも同名の丸山古墳が存在するためで、彼方に属している理由による。墳丘は河岸段丘の崖面に近い位置にあって、墳頂の標高は八九・一メートル、前面の低地は六五・五メートルあるから、地形的にかなり高位を占めている(321)。
楠風台住宅として造成される以前は、東西に長い段丘面ながら東側の浅い谷と、西側に深く切り込んだ谷とで東西二五〇メートル、南北二〇〇メートルの平地をなし、墳丘周辺は南から北に向かってわずかな段差をもつ水田で囲まれていた。墳丘は開墾されて果樹として蜜柑が全面に植えつけられていたものの、実測図によってみると本来の外形をよく保存していて、直径三五メートル、高さ四・五メートルの円墳であることがよくわかる。一九六八年夏に大阪府教育委員会が実施した試掘調査によって、さらに墳丘の周囲に幅約九メートルの浅い濠をめぐらしていることが判明した。墳頂に立つと南に丘陵を背負っているとはいえ、北方に視界が広がり、石川谷中流域からはるかに下流の古市古墳群の一角に至るまで展望できるよい位置を占めていることが実感できる。