墳丘の形状をさらに細部にわたって見ると、北側と東側がとくに本来の円墳の姿をよく保っているのに対し、南側から西側にかけては耕作のために裾部が若干削られた結果、斜面の傾向が急になって原形を損じている(322)。墳丘の上面には葺石の遺存はあまり顕著に認められないが、周濠の底部を試掘したところによると、斜面から落ち込んだと思しい丸石が大量に堆積していて、もともと葺石が使用されていたことを推測させる(323)。埴輪の破片も墳丘では全く認めないが、後述するように周濠中から朝顔形埴輪をはじめとして数種の埴輪片を検出した。試掘は墳丘部分に対して行なわれなかったため、埴輪の遺存状況はわからないが、墳丘の形状からすると裾部に低い一段の張り出し部が周辺に設けられていたとも考えられるので、埴輪が樹立されたのはとくにこの下段部分であったかもしれない。いずれにしても本古墳の埴輪は形状とともにその配列の点でも注目されるので、今後の調査に期待したい。
墳頂部には既掘の痕跡などは認めなかったが、封土中に片岩質あるいは花崗岩質の割石材が散乱していて、明らかに葺石とは別種の用材に属していたことからすると、本古墳の内部構造が竪穴式石室である可能性も考えられる。