彼方の南方伏見堂の西に接して広がる東西、南北ともに約六〇〇メートルの舌状台地上にある古墳群である。北流する石川は千代田橋を過ぎたあたりから大きく西に曲がり、この西野々の台地を囲むようにして再び直角に東流したのち、高橋の幅の狭い河岸の間を北東へと流れている。この台地はおそらく縄文前期に属すると考えられる石鏃などの石器の散布を見ることから、縄文時代の集落立地として利用されてきたのであろう。すでに指摘したように下流の石川左岸にも縄文前期の錦織遺跡があり、西野々台地北方の石川対岸にも近年になって縄文晩期の遺跡が発見されるなど、すこぶる注目すべき地域である。
古墳群は台地の北半に偏し、中央を南北に通じる市道彼方長野線の西に接して、北側に明八塚と呼ぶ第1号墳、その南に一〇〇メートル離れて第2号墳、さらに西方に離れて道路と河岸との中間に第3号墳、河岸に近く南北に二基が並び、南側を第4号墳、北側を第5号墳という五基からなる(335)。この分布は田中古墳群や嶽山古墳群のように丘陵尾根の稜線上に密集せず、相互に一〇〇メートルないし二〇〇メートルの間隔をおいて点々と認められる。これら丘陵上の群集墳が後期に属するのに対し、西野々古墳群が台地とはいえ、平地上に立地するのは時期的にどのような関係にあるのか興味を抱いてきたことであったが、一九七九年になって第1号墳すなわち明八塚の墳丘北側を調査した結果、ようやく手がかりが得られた。
一九七九年度市営事業として市道伏見堂東西線が計画され、用地買収の関係で墳丘の北側に接近して道路敷を設けざるを得なくなったため、墳丘の北縁と周濠の有無を調査する必要が生じた。大阪文化財センターで墳丘の北に長さ一〇メートル、幅四メートルの三条の試掘溝を放射状に設定した。その結果墳丘の形状から推測したように円墳の裾端部が弧線をなしてあらわれ、それに接して周濠が存在すること、さらにその外側が外堤をなして敷石状遺構をもつことなどが判明した(『明八塚周濠部試掘調査報告書』大阪文化財センター、一九七八年)(336)。