内部構造が確実にはわからない本古墳の年代については、これらの埴輪片の示す六世紀前半の時期をもって築造年代とすべきであろう。墳丘の上面からは別に須恵器片と瓦片を採集した。須恵器片は内面に同心円叩目をもつ甕形土器の破片とみられ、埴輪の年代と矛盾しない。瓦片は中世以降のもので、墳頂に小さな堂宇が営まれていたとも考えられる。
この明八塚に比べると第2~5号墳は墳丘の保存状況が悪い。第2号墳は直径二五メートル、高さ約四メートルの円墳で、もと横穴式石室状の石築施設を有していたと伝えるが、現在では墳丘が半壊している。第3号墳は方墳状を呈するもので、一辺の長さ約二八メートル、高さ二・五メートルの規模をもっているものの、墳丘の遺存状況はよくない。第4号墳は墳丘の一部を残すにすぎず、一辺は約一五メートル、高さ四メートル程度で、たんに古墳の存在のみを示している。第5号墳はとくに記すべき内容はない。
この地域で埴輪円筒を有する古墳は、第1号墳すなわち明八塚と、嶽山古墳群中の第3号墳である。嶽山第3号墳の埴輪円筒も後述するように後期初頭の六世紀前半の特色を示していて、両古墳はほぼ同時期に成立したとみることができる。しかも両古墳ともそれぞれの古墳群の中では、最も古い時期に営まれた古墳の一つと解されるので、この地域における古墳は六世紀前半の段階で始まったといいうる。しかも田中古墳群を含めると、後期の段階でごく接近した地域に、三群の群集墳がそれぞれ別個に形成されたところに、地域の中での集落構成を反映していると見るべきであろう。石川谷の狭くなった上流域にこれらの群集墳が形成された問題を、今後検討して行くことが必要であると考える。