径約二〇メートルの両袖式の横穴式石室を内部主体とする円墳で、本古墳群中最も小型である。その石室の規模は全長七・五メートルを測り、玄室長三・二メートル、羨道長四・三メートルである。
玄室内からは家形石棺の蓋が検出された。この棺蓋は中央で二分して作られたうちの片側で、前方に一個と左右に各一個の計三個の縄掛突起を有している(345)。材石は二上山産の白石と称する凝灰岩である。長さ一三四センチ、幅一一二センチ、高さ四六センチあり、縄掛突起は棺側から約五センチ突出していて、上面は棺蓋の屋根の斜面に近く傾斜している。突起の前面は幅三三センチ、高さ三二センチの方形をなしている。棺蓋の下面は深くアーチ形に削られ、内壁側面と天井面との境には角がある(346)。
棺蓋の側面の高さは三一センチあるのに対し、屋根部の高さは一五センチにすぎないので、家形石棺全体としての形状は扁平である。このことは屋根の上面が長さ一〇〇センチ、幅五一センチと広くて、家形石棺としては平坦面の広い新しい時期に属する型式ということができる。このように棺蓋が二個を組み合わせる構造からなる点で、棺身もまた底と四側壁の五枚の石材を組み合わせたものであったとみられる。
一個体の棺蓋をもつ家形石棺に対して、組み合せの棺蓋をもつ石棺は型式的に時期の下るもので、類例として柏原市平尾山第34号墳があり、三個の棺蓋を組み合わせた例では同じ柏原市円明の東原ワカ山古墳(347)、奈良県北葛城郡当麻町櫟山古墳などがある。これらが六世紀末から七世紀前半にかけて作られたとみてよいので、2号墳出土の組合式家形石棺も六世紀末に位置づけることができるであろう。この石棺蓋は現在、市立第二中学校の校庭東南隅に保管されている。
出土遺物は皆無に等しく、須恵器壺破片と近世土器片が若干発掘されたにすぎない。