本古墳群の東端の一番高所にあって、径約三〇メートル、高さ三~四メートルの規模をもち、当古墳群における主墳的位置を占める。封土は完存はしているが墳丘西斜面は造成工事により著しく破壊され、墳丘の三分の一程度を消失している。墳丘上には竹や雑木が繁っている。内部主体である横穴式石室は片袖式で、その規模は全長九・二メートル、玄室長四・二メートル、玄室幅一・九メートル、玄室高さ約一・八メートル、羨道長五メートル、羨道幅一メートル、羨道高さ約一・三メートルを測り、南西方向に開口する(348)。玄室は側面が下部に大型の割石を並列させ天井部に向かって小型化する割石を積み上げ、アーチ状に持ち送りながら四段に構成している。羨道部は、玄室同様、下部に大型割石を用いその上に小型の割石を一~二段積み上げて側面をつくっている。天井石は側石と比べてきわめて大型の割石で、玄室天井部を四個、羨道天井部を三個の石でおおっている。袖部の石も一個の直角状の大型割石を用い、上部は小型のそれで形成している。底面には割石や封土がかなり堆積していて、排水施設等はよくわからない。石室壁面は外圧力によりかなりひずみが生じ、割石が石室内側に大きくせり出し、今にも崩壊するかの不安定な感を抱かせる。