古墳の年代と構築順序

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まず石室が玄室と羨道の境に袖をもつ典型的な横穴式に属していて、自然の花崗岩質野石をほとんど加工することなく積石の材石として用いていることを指摘できよう。また内部に二上山産の白石と称する凝灰岩製家形石棺を蔵していたことも市域内の後期古墳として数少ない例をなしている。第1号墳の遺物の中に須恵器の高杯、𤭯、壺などがあり、とくに装飾付壺をともなっていることは鉄地金銅張の馬具の存在とともに後期古墳の盛行期、六世紀中葉をあまり下ることのない時期に構築されたことを推測させる。これに対して第2号墳はやや時期の新しい家形石棺をもっていて、追葬によって持ち込まれたものでないとするならば、古墳の年代は第1号墳よりも新しいとしなければならない。第4号墳は出土遺物を明らかにしえないものの石室の形状からみて、他の三古墳よりもさらに年代の下るものといえよう。古墳の立地からみても南面して傾斜する丘陵の先端にまず、1号墳が造られ、ついでその東方に2号墳、3号墳さらに北方の最も高い所に、4号墳が造られている状況からみると、これらは集落の存在する平地部に最も近いところから次第に高いところに構築の順序が進んだと解せられる。この場合、5号墳は内部構造、出土遺物を明らかにしえないものの1号墳と反対の東端最奥部に位置することから、あるいはこの田中古墳群で最後に営まれたものかもしれない。なお4号墳は別項で述べる嶽山古墳群の第22号墳と石室の構造、材石の形状などで共通する点が多く、ほぼ同じ築造時期と考えられることも指摘しておこう。(松井忠春)