墳丘には埴輪列や葺石、墳丘裾には溝すらなく、墳丘の元来の規模は測り難く、しかも後世の流失によって墳丘自体が変形してはいるが、およそ直径約二〇メートルの円墳であったと推定される。調査の結果、墳丘には第1号墳同様に明確な盛土はなかったが、ブルドーザーによる削平が厚さ一メートルにもおよび地山が露出し、かりに盛土されていたとしてもごくわずかであって、自然地形を最大限利用したものと思われる(352)。
内部主体は、表土直下に長軸を南北におく木棺直葬であるが、その大きさは不明である。
遺物は、主体部から提瓶、無蓋高杯および須恵器高杯が出土したが、棺全体のどの位置に納置されていたかは削平のため不明瞭である。その他に墳丘南側斜面の表土中より須恵器甕の破片が若干検出されたが、主体部にともなうものかは明らかでない。また墳丘東側斜面から円筒埴輪片が出土した。
これら二古墳以外に、第1号墳後方部南斜面から奈良時代の火葬骨壺一点が発掘された。骨壺は、蓋付須恵器で、底部中央を穿孔し剥落した破片で孔を塞ぎ火葬骨を納入したもので、骨片以外の遺物はなかった。また第2号墳東側斜面から、若干時期の下る内外面の叩き目を有した須恵器甕片とともに、皇朝十二銭の一枚で延暦一五年(七九六年)初鋳の「隆平永宝」と推定される銅銭片が出土し、須恵器甕とを考え合わせれば火葬墓の存在が可能となるが、骨片も認められないため判然としない。
なお、第1号墳および第2号墳の年代であるが、出土遺物から推していずれも六世紀後半に比定され、本地域周辺では最後の前方後方墳であり、首長墓であると思われる。それ以降少なくとも平安時代前期までは本地域は墓域として保たれていたようである。(松井忠春)