平にはこれらの古墳とは別に茶臼山古墳と称する古墳もあった。同地内本忠利氏の所有地で、氏の話によると、古墳は本市と羽曳野市との境界にあたり、丘陵が東方に向かって突出した一支脈の先端に位置しているという。後日同地域に実施を試みたところ、平二丁目の安楽寺の西方に大池と称する灌漑用の溜池があり、それに臨んで標高七一メートルの先端が円墳状に隆起した丘陵が突出してきていて、古墳とするにふさわしい。
同氏からの聞書では、頂上を開いた際、丸石で長方形に囲った施設を発見し、その周囲には赤色軟質の壺が並べて埋められ、須恵器も共存していたという。注目すべき遺物としては竜文の飾付環頭大刀と思しきものがあり、把頭には鍍金の痕跡も認められたということであるが、いま同氏宅には須恵器のみが保管されていて、他の遺物については実際に調査することができない。なお丸石で囲った施設の中には人骨かとみられる白色の石灰質のものも残っていたという話で、不確実ではあるが埋葬用の小石室があったらしい。
須恵器は𤭯、提瓶、杯蓋、坩の四点で、𤭯は器体胴部の円形に穿孔した口をめぐって斜行する櫛歯文があり、口頸部には縦方向のカキ目状の条痕がある。提瓶は扁球形の胴部に外反する口頸部をつけ、両肩に鈎状の耳を配した通有のものである。杯蓋は天井部にボタン状のつまみをもち、内面にかえりを作り出している。
内部構造が明瞭でないので細部の点について検討できないのは残念であるが、須恵器からすると六世紀中葉から後半にかけての時期を考えてもよいであろう。須恵器としては平第1号墳よりやや新しい時期に属している。