群集墳の分布についてみると、嶽山の南に小さな谷を隔てて金胎寺山が連なり、その間に西方に向かって派出した二つの支脈上に位置している。このうち北の支脈上には1号から4号まで四基の古墳があり、南の支脈上には残余の一九基の古墳がある。一九基の古墳はさらに細別すると四つの小グループに分けることができ、山腹のほぼ同じ高さの地域を占めて、山麓から二基、七基、七基、三基がそれぞれ集中して営まれたことがわかる。これを今ことさら小群に分類することの意義は見出せないが、下から二番目の第二群に属するといえる七基の円墳群が、山腹のほぼ同じ等高線上に一列に並ぶ配列を示すのには興味がある。現地を実際に踏査してみると、南から北に登る緩やかな山道に接してこれらの円墳が営まれていて、当時すでにこの山道のような墓道があり、それに沿って等間隔に古墳が次々に築造されたのではないかと思われる。これらの古墳の内部構造は、現在では内部に入ることはできないものの、墳丘の南側に石室の開口しているもの、墳丘の上部に石材の露出している例などがあって、この七基のうち第7・10・11・12・13号など、いずれも横穴式石室からなることが推定できる。古墳群全体の概容については、分布調査を行ない、『富田林市の埋蔵文化財―埋蔵文化財基本分布図―』(市教育委員会一九七八年)中に収載した成果の一覧表を再録して、個々の解説にかえることにする(356)。