円筒埴輪を有する第3号墳は、西方に突出した丘陵の小支脈の先端にあって、尾根筋にあたる稜線部の緩やかな傾斜部分を利用している。現在かなり密生した山林中にあるため、墳丘の厳密な実測図を作製しなければ何ともいえないが、円墳に接して西方に延びる平坦部分があるので、あるいは前方後円墳の可能性も残されていることを付言しておこう。古墳の東北方から撮影した写真でも、墳丘自体はよく見通すことはできない(355)。ただ前方に石川谷を見渡す景勝の地を占めている。
円筒列がどのような状況でめぐらされているのか全くわからないものの、本古墳出土の円筒埴輪を見ると、古墳が後期初頭に位置する年代に築造されたことは明らかである。現存高は三四センチ、上部の径は大きくて約二五センチあり、底部の径が二〇センチあるのと比べて、上方に開いた形状である。最下段の突帯は底部よりかなり離れて二六センチの上方にある。突帯に接して一対の円孔を穿っている。直径は六センチある。赤褐色を呈し、軟質の焼成で、表面を刷毛目調整のあとをほとんど認めず、むしろ縦方向にヘラ削りを加えたかと見られる形跡があって、凹凸が著しい。胴部にめぐらされた突帯も低くて幅が広く、丸味をおびていて、粗雑な手法で貼り付けている。器胎の厚さは一センチある(357)。
また同墳を踏査の際、東方の2号墳が位置する尾根上から、須恵器の杯破片を採集した。石室内からの検出ではないが、この群集墳に関連する遺物と見られる。底部の破片で外面にヘラ削り、内面に回転ナデが認められる。黝黒色を呈する光沢のない外面をもち、しいていえば六世紀代に属する程度のことはいえるであろう(358)。
群集墳のほとんどすべては横穴式石室を主体部の構造とすると考えられるが、内部を調査できるのは第5号墳と第22号墳の二基である。このうち5号墳は主群の西北端にあたる最も低い標高に位置し、22号墳は最高部の三基の中央にあたる。