この第5・22号両墳からは土器をはじめ副葬された遺物を全く発見していないので、年代の推測については石室の構造を参考にするしかない。しかし興味のあるのは、この古墳群から北方に約七〇〇メートル離れた田中古墳群中に、これと比較できる石室が存在する事実である。すなわち田中古墳群の項で説明した四基の古墳のうち、第4号墳と称したものは片袖式の横穴式石室であるが、他の諸古墳に比べて石室の構築法が22号墳と共通する点が多い。
たとえば用材が丸味をおびた小型の花崗岩質の野石で、側壁が乱積みからなり、表面を調整した形跡を全く認めない。4号墳においては、石室の全長は九・二メートルあり、その中玄室の長さは四・二メートルと大きく、幅も一・九メートルある。いまこの幅を玄室の長さで除して百分比を出してみると、四五・二となる。一方、22号墳の玄室長を二・九九メートルとし、幅は床面で若干広がるものとして一・三五メートルと推定して、同様に幅を玄室長で除してみると、その百分比は四五・二となって一致する。また両古墳の玄室の面積比を出してみると、田中古墳群の4号墳は七・九八平方メートルあるのに対し、嶽山古墳群の22号墳は四・〇四平方メートルとなって、両者の面積比はおおむね二対一となる。前者の石室の全長が九・二メートルに対して、後者が約五メートルと二分の一の規模をもつことも、こうした比較を試みた後ではあながち無関係といえないであろう。
田中古墳群と嶽山古墳群とは、集落構成の異なる集団によって、それぞれ営まれた群集墳であろうと概説中で推論したのであったが、上記の二古墳の玄室の広さの比率になんらかの関連があるとすると、少なくとも二つのこと、すなわち石室の企画と構築者が同一であったことと、両者の築造時期が接近していた可能性とを暗示するものと考える。