古墳は市内中野町西一丁目の西方にあたる羽曳野丘陵上にある(367)。この地域はとりわけ丘陵が東方に向かって張り出した地形で、東西方向に約五〇〇メートルの長さをもつ支脈をなし、中央部が最も高くて標高は一〇八メートル、東方の平地との比高差は五〇メートルに近い。古墳はこの最高点から南東に突出した尾根筋の上に位置し、頂上から約一〇メートル低く、標高一〇〇メートルのところにあたる。また現在は東方のグランド造成のために削られてしまったが、もとはこの古墳を平野から隔てるように、東側に谷を隔ててほぼ同じ高さの丘の分岐が南向きに延びていたのである。すなわち古墳を中心として東・北・西に丘がめぐり、南は谷の小流を介してさらに別の丘陵に対する地形で、かつて軽部慈恩氏が百済古墳の立地を四神思想と関連づけて説明を試みた説と共通する点に興味をそそられる(「公州に於ける百済古墳」『考古学雑誌』二三―七)。
墳丘は円墳とみられ、土砂が若干流失していて原形を損じているものの、直径約一五メートル、高さ約三メートルあり、外見からは葺石などは認められない。
いま墳丘の南側に羨道が大きく開口し、切石を用いた側壁の上に巨大な天井石を載置していて、墳丘の中央から北に偏して家形石棺を据えている。羨道の南端から石棺の北端までの全長は一〇メートル余りある。また石棺と羨道を結ぶ主体部の長軸の方向は、磁北に対して二〇度西に偏している(368・369)。