古墳は大谷女子大学から外環状線を介した西方の丘陵上に位置し、径一七メートル、高さ一・七メートルの円墳で、主体部の石室の一部が露出している。石室は花崗岩材の切石を布積みにした横穴式石室状のもので、あるいは終末期の石棺式石室の特色をもつのではないかと推測されるが、細部は明らかでない。
大阪府教育委員会の試掘調査によって凝灰岩の小片と須恵器片、および同心円叩目文をもつ堅緻な焼成の塼破片を出土した。この塼破片は次章で述べるように、錦織廃寺と丘麓に位置する細井廃寺から採集された塼片と共通する点で注目に値し、古墳と寺院との関係を示唆するだけではなく、石室内部の遺存状況によっては古墳の年代を考える上で重要な資料となるものであろう。ただしこの地域は公園地区として開発から保全される予定に含まれているので、主体部の内容が明らかにされるのは環境整備が行なわれる将来のことである(383)。