この堂ノ山古墳の南西に接して大日山古墳がある。南側の下方を走る府道和泉富田林線から見上げると、北東から南西に長軸をもち、南側が後円部で北東に前方部を向けた前方後円墳形に見える。全長は約六〇メートルあり、周辺の水田地帯は周濠の痕跡と判断することもできる。ただこの小隆起地形の頂上に登って詳細に墳丘の形状を検討すると、全長に比べて幅が狭く、また平面形では前方後円墳の条件にやや欠けるところがないわけではない。我われは市史の資料調査の際にこの古墳を実査するとともに、古墳の形状を実測することを計画したが、他の遺跡の調査に逐われて実行する機会を得なかった。したがって不完全な踏査による判断をもとに所見を述べることをさけて、一応、大日山前方後円墳という可能性をもつ古墳が存在することを指摘するにとどめたいと考える。
実際に踏査した際、墳丘部分に雑木はあまり繁茂せず、下草によって広くおおわれていたにすぎなかったので、地形に関してはほぼ支障なく観察することができた。ただし葺石と埴輪については発見に努めたにもかかわらず、存否を確認することができなかった。今後の調査によってこれを古墳と確定した段階で、この古墳が羽曳野丘陵の最南端に位置するということができる。すなわち南河内の中央を南北一〇キロの長さにわたり軸線をなす丘陵の北端には有名な古市古墳群があり、南端にもまた古墳を見ることになるわけである。この背後に連なる赤穂池、奥ノ池さらに東方に廻って上ノ池、中之池の周辺に広がる丘陵は、入り組んだ谷と複雑な起伏をもつ地形であるので、この錦織から須賀に至る市域南部の地域は将来改めて厳密な古墳の分布調査を行なう必要がある。
とくに錦聖町の東に向かって傾斜する台地上には、古墳時代から歴史時代にかけての各種の土器片が散布していて、次章に述べる集落遺跡の中で錦織地域に含まれる重要な分布範囲に西接する地帯として注目すべきであろう。