彼方から滝谷不動明王寺を左手に見ながら佐備に至る千早森屋狭山線の道路が佐備川を横切ってまもなく、南北に横たわる丘陵が見えて来る。この丘陵が窯址の位置するところである(384)。さらに地形を詳しく見るなら馬蹄形に入り込んだ北に延びる丘陵の東斜面中腹に位置し、標高はおよそ一〇〇メートルを測る。ちょうど佐備神社の東南方四五〇メートルに当たり、丘陵はすべてみかん畑に利用されている(385)。近年、果樹園内に農道を敷設修理する際に灰原、もしくは遺構の一部が削り採られたらしい。その時に須恵器片が散在し採集されたのが発見の契機となった。実地踏査の折にも散見した須恵器片を採集した。採集した須恵器片をよく観察して見ると壺・高杯・蓋杯など器形の明らかなものが含まれている。ここに、そのうち主なものを挙げて紹介しておこう。杯身は復元口径一四・六センチで、口縁部および受け部に箆調整が、底部にはあまり明瞭ではないが箆削りが施されている。また、内面には横なでが見られる。外面は灰褐色、内面は青灰色を呈している。胎土は粗く器面の見ばえがよくない。杯蓋は復元口径一六センチで、体部は内弯しているが口縁部は外反している。口縁部には箆調整が、また天井部にはあまり明瞭ではないが箆削りが施されている。内面は青灰色を呈し、外面は赤っぽい不純物が付着している。胎土・焼成はあまりよくない(387)。高杯は口縁部・脚部を欠損しているが、底部には箆削り、内面には横なでが見られる。体部には六条の波状文が施されている。脚部は四方透しで、底部には透しを穿った時の箆痕が残っている(386)。壺は細片であるため口径は不明である。これらの須恵器は陶邑古窯址群出土の第Ⅱ形式に属するものであろう。本窯址の小字名を壺焼と称し、これと隣接して「金クソ」という小字名が見られるのも大変に興味深い。(竹谷俊夫)