19 五軒家須恵窯址

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 五軒家の集落は南から北に延びる小谷により、東西に分割されている。遺跡はこの小谷に沿った南斜面、通称新開地側に位置する(388)。

388 五軒家須恵窯址所在地図 (l:15000)

 地元ではすでに一九五一年頃から土器片の出土するのが知られていた。採集された遺物の中には多数の土器に混じて、たがいに融着した土器や苆(すさ)混じりの窯壁片が固く融着している資料が存在しているので、窯址の出土品であることは疑いない(389)。

389 五軒家窯址出土須恵器、窯壁片が融着している

 五軒家の近傍には別にいくつかの窯址がある。一は狭山町半田の新池の東岸にあり、二は美原町菅生新田、通称ノダ山の西斜面にある。各々は五軒家窯址から、直線距離で五〇〇メートルと九〇〇メートル離れている。これらの窯址群はいずれも狭山谷に向かって開いた羽曳野丘陵の西部地域に分布することが指摘され、丘陵裾に形成されたいく筋かの谷川に沿って点々と位置している。西方二キロには窯址群として著名な陶邑がある。陶邑では時代が下がると、窯址が地域的に拡散する傾向が知られている。さきの三基の窯址を陶邑窯址群に含めて考えると、これらはその東限に位置することになる。南北にのびる羽曳野丘陵が、須恵器窯のさらに東方への拡散を区画することになったと思われる。

 五軒家窯址出土の土器には、杯、蓋、埦、高杯、提瓶、短頸壺の器形がある。各々の器形の特徴はつぎのようである(390)。

390 五軒家須恵窯址出土須恵器実測図

 杯 (1)~(6)

 口径一二センチ前後の大型品(1)~(4)と、口径一〇・四センチの小型品(6)がある。ともに高さ三センチ前後で、底部の平坦面が広い。(5)のように口径の大きさが両者の中間で、高さ四センチの深身のものもある。いずれも口材部の立ち上がりは低く、内傾する。受部はほぼ水平に突出する。底部のヘラ削りは底面のおよそ三分の二の範囲におよぶ。ロクロの回転方向は判明する限りすべて順回りである。

 蓋 (7)~(12)

 つまみの無いもの(7)~(11)と、つまみの有るもの(12)がある。前者は口径一三・六センチ前後の大型品(7)~(10)と、口径一一・八センチの小型品(11)がある。いずれも天井部と口縁部を区画する凹線や稜は認められない。天井部は丸みをもつ。(9)は天井部がなかくぼみになる。口縁端部は丸みをもつものと、にぶい凹線のめぐるものがある。ヘラ削りは天井部の三分の一ないし三分の二におよぶ。ロクロの回転方向は判明する限りすべて順回り。

 つまみの有るもの(12)は口縁部が欠損する。つまみは径二・六センチ、高さ八ミリで、上面は平坦である。天井部はヘラ削りの後につまみを付す。

 埦 (13)

 器体の下半に最大腹径を有する丸底の品である。口縁部から二・八センチ下方に一条の凹線がめぐる。口縁端部は丸みをもっておわる。底部はヘラ削りを施し、内底面は仕上げなでを施す。ロクロの回転方向は順回りである。

 高杯

 方形透しの脚部がある。長脚二段透しの下位の破片と思われる。

 提瓶 (14)

 口縁部は内弯気味で、口縁端部は丸みをもつ。器体に付した釣手は矮小化し、鉤状に屈曲する。口径九・七センチ。

 短頸壺

 口縁部が器体から六ミリ前後立ち上がるもので、器体肩部は張る。

 甕 (15)~(17)

 口径一三・六センチの小型品(15)、同二三・六センチの中型品(16)と口径四〇センチ前後になると思われる大型品(17)がある。小型品、大型品はともに外反する頸部が上方でさらに外反し、口縁部につづく。(15)に口縁端部が下方に肥厚する。(16)は丸みをもっておわる。大型品(17)は頸部に数条の凹線文がめぐり、凹線文によって区画された間に、斜線を密接して連続させた文様を描く。口縁端部は下方に垂れ下がる。

 以上のうち、埦は比較的数の少ない資料である。難波宮址南地区下層の竪穴出土品に類品がある。口径二〇センチ強あって、五軒家出土品より一まわり大きい。この種の器形で台付のものは陶邑古窯址群TK209号窯や、愛知県炭焼22号墳など、かなり数多く知られている。共伴する遺物からみて、両者は相似た時期に出現したものと考えられる。

 五軒家須恵器窯の資料は田辺昭三氏編年の第Ⅱ期に該当し、陶邑TK43号窯併行と考えられる。宝珠つまみが認められないこと、および難波宮址東地区下層竪穴の資料などから五軒家窯の継続年代を六世紀末、七世紀初頭におくことができよう。

 狭山町半田・新池・および美原町菅生新田所在の窯も五軒家のそれとほぼ相似た時期のものと考えられる。(置田雅昭)

 羽曳野丘陵中には須恵窯址の分布を見ないので、これら五軒家を含めて丘陵の西縁に位置する窯址の存在は注目すべきものである。窯址が丘陵中に認められないのは、この羽曳野丘陵の粘土が陶土として適さなかったためではないかと考えられ、地形と燃料の松材を供給する条件が、この地域に進出させた理由であろう。その意味から陶邑古窯址群の東限を画するだけにとどまらず、地域社会の経営状況を裏づける点できわめて興味があるといえよう。